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◆ 西田 在賢先生 PROFILE


情報工学専攻の院生が医療経営の研究を目指したお話し


情報工学専攻から医療経営学への転進

ここからは、かつて情報工学を専攻していた私の思い出話をさせていただきたいと思います。私の年代に近い読者の方々には懐かしい楽屋話もできるかもしれません。

時代は1977(昭和52)年のことです。私は東京大学大学院工学系研究科情報工学専攻修士課程に進みました。
といっても、この情報工学専攻は、当時、文部省が試験的に進めていた大学院大学の試みでもあったため、学部を持たず、そのため専攻自体では大学院入学試験を行なわず、工学部の中のいろいろな学科の大学院に進学してきた人たちの中で、とくにコンピュータ分野の研究を希望する人を情報工学専攻の所属に勧誘するというものでした。
ですから、私の場合は、計数工学科の大学院試験に受かった後で、事務局から連絡が来て、指導教官は情報工学専攻と兼任しているので研究指導に変わりはないから、こちらの専攻に転籍しないかと誘われました。
特典は、コンピュータが使い放題ということでした。

学生一人ひとりがパソコンを所有する今の時代からすると、理解しにくいかもしれませんが、当時は、パソコンそのものがまだ存在せず、コンピュータを使うというと、手で書いたプログラムをパンチカードに打ち込んでから、コンピュータセンターに持ち込んで順番待ちでカードの束を読み込んでもらい、何時間かしてからプリントアウトされた結果を取りに行っておりました。
しかも、コンピュータ使用量はCPUタイムというもので計られ、たいへん高価なため、コンピュータの利用は限られていました。中には、指導教官が大金の研究費を獲得して、数百万から数千万円のミニコンという小型のコンピュータを研究室で買うこともあったのですが、プログラミング言語に制限があったり、プリンターが貧弱なものでした。ちなみに、ディスプレイ装置として、アルファベットと数字しか表示できないブラウン管式のものでも一台数百万円していましたので、その頃は一般的にプリンターだけでコンピュータの入出力を管理していました。

そんな時代でしたから、コンピュータが使い放題というのは、コンピュータを研究したい院生には、まさに殺し文句でした。そこで、私は情報工学専攻修士課程の院生となったのですが、実際のところ、そこではもっと凄い特典がありました。それは、専攻に所属する先生方が一堂に会す輪講でした。
専攻の専任教授はというと、わずか3人でした。しかし、渡辺茂、元岡達、和田英一といったわが国この分野の錚々たる先生方でした。加えて凄かったのが、工学部全体で抱える専攻だったことから兼任の先生方には、私が聴いた講義だけでも猪瀬博、石井威望、南雲仁一、藤崎博也、伊理正夫、井口雅一、三浦宏文、井上博充、田中英彦、伊藤滋、穂坂衛、北森俊行、甘利俊一、伏見正則の諸先生方がおられ、専攻に所属する教員の数は20人を超えていました。それに対して、私の同期と修士2年や博士課程の先輩方をすべて合わせても、院生は20人には満たないものでした。おかげで輪講は当代一流の先生たちの論評や議論が飛び交う、思うとなんとも贅沢な時間でした。

もっとも、贅沢だったと気付いたのは、少し後になってからのことでしたが。というのも、私は計数工学科の森口繁一先生のご指導をあこがれて進学したのですが、先生は入れ違いで定年退官されました。そのため、大学院進学当初は、何の研究から着手したものか、焦点を定まらずにいました。
そんな折、たしか最初の輪講の席だったと記憶するのですが、研究科長の渡辺茂先生が新入生に向けて訓示をされました。


訓示


渡辺研究科長のご指示が正しかったことは、30年経った今も実感しています。確かに、CPUの処理速度も、記憶装置の容量も飛躍的に進歩・増大し、OSも進化して操作性もたいへん良くなり、入出力装置も廉価でバラエティに富むものとなりました。また、コンピュータネットワークも日常のものとなりました。しかし、フォン・ノイマン形のまま現在まで続くコンピュータのハードウエアの原理そのものは何も変っていません。

ところで、私のその後の進路として重大な出会いがあったのが、他学部との単位互換講義でした。
私は、医学部で用意された医療情報システムの講義を取ったのですが、ここで米国からもたらされて間もない病院情報システムを知りました。そこで、これを修士論文のテーマにしようと思い、さっそく調べました。
しかし、2ヶ月ほどで諦めました。というのも、本家本元の米国では、病院情報システムHospital Information Systemは一般企業で開発された経営情報システムManagement Information Systemを病院向けに転用したものであって、要は、病院経営を支援するためのコンピュータシステムだと明確に定義されていました。

ところが、日本では、病院を管理するという考え方はあっても、病院を経営するという考え方はありませんでした。当時の日本の医療関係者たちのあいだでは、「医は仁術であって、算術ではない。」というのが正論とされていました。すなわち、医療サービスの提供が経済活動のひとつであるという認識はほとんどなされていませんでした。そのため、日本では病院情報システムといっても、コンピュータが支援する対象が病院経営ではなく、いわば、医師にとって関心のあるコンピュータの使い方といったものになっておりました。

研究というのは、先行する論文をあたり、まだ手薄になっているところを見つけて着手するわけですが、病院情報システムについては、元々の定義と日本のものとが違うわけですから、このテーマを修論にすることを諦めた次第でした。そして、このときの調べものでお世話になった医師の先生とのお付き合いからシステムダイナミックス手法による癌の集団検診システムの分析といったもので修論を済ませました。

しかし、「なぜ、日本の病院は(米国のように)経営をしなくて済むのだろうか」という単純な疑問が脳裏から消えませんでした。後々になってわかったのは、最初の方で述べたように、当時の日本では病医院の経営は厚生省が行なっていたようなものだったということでした。そして、高度経済成長が終わり、それまでのような税収の高い伸びが見込まれなくなったことから、医療保険財政への公費投入が難しくなる一方で、医学・医療の進歩が著しいために保険適用を求める治療がどんどんと増えるわけで、医療保険財政はのっぴきならない事態へと進んでいます。

実際のところ、1974年頃からは国民医療費は毎年1兆円ずつ増えて行き、25年後の1999年にはとうとう30兆円に至りました。凄い金額です。このような動向の中で医療制度改革が進んでいるわけで、改革の内実は国が行なう医療保険の経営改革といっても過言ではありません。私は、このことを「制度経営論」と説明しています。
そして、病医院の経営を「事業経営論」として区別しています。そして、それら二つの経営論のバランスを説明するのが「医療経営学」Health Policy and Managementの役割だと考えています。


紙面がなくなってまいりましたので、このコラムでのお話しは、そろそろ終えることにいたします。
なぜ、日本の病院は(米国のように)経営をしなくて済むのだろうか、という素朴な疑問に対する答を探そうとして、情報工学専攻を修了した後、同期たちが電電公社や通産省の研究所に職を求めたのに対して、私は病院経営の知識を得られるところを求めて外資系の経営コンサルティング会社に就職を決めました。
当時の東大の学科事務局からは、聞いたこともない会社への就職を相談もなしに決めたと苦情を言われました。

その会社が、後日、日本でも有名になるマッキンゼー・アンド・カンパニーでした。ここで出会った人々とのネットワークは、一生の宝となっています。
その後、電子カルテシステムをハードウエアから開発するベンチャー企業を起こしたり、大型コンピュータのレバリッジド・リースを世界規模で行なう日仏合弁会社の経営を立て直すといった経験を経て、15年前に大学へ戻り、医療経済・医療経営の研究ができるようになりました。しかし、まだ医療経営の研究に専念できているわけではありません。というのも、たった今は大学改革の真っ只中にいるため、古い大学像は壊されつつあるものの、新しい大学像というものがまだ定まらずにおり、溢れるような雑務の中で苦闘しているのが現状です。
そのようなわけで、霧の中の新しい大学像を見定めつつ、医療経営学の確立と医療経営人材養成講座の開設を求めて、なお試行錯誤しております。






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